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う説がある。まり、秀吉に敗れた後、竹槍に突かれて死だのは光秀の影武者だったというのだ。光秀は信仰心が強く、信長を排除した後に自分も死でいいとは考えなかったのではないだろうか。計算高い光秀は事件後のことも当然考えていただろう。「三日天下」となってしまうほどの無様をさらすことはなかったはずだ。だが、この後歴史上に明智光秀という人物が登場することは二度とない。秀吉と並ぶ有能な武将は本当に死でしまったのだろうか。届けられた光秀の首は、すでに腐敗が進み、誰の首か見分けはかなった。桔梗塚の伝説岐阜県のとある町に伝わる伝説がある。生きのびた光秀は中洞なかぼら村現在の美山町中洞にかくれ住でいた。秀吉との合戦に勝てないと見た荒木山城守が身代わりとなって農民に竹槍で突かれ死に、光秀は荒深小五郎荒木の恩の深さを表わしていると名のり静かに暮らしていた。関ヶ原の合戦の時に家康に見方しようとしたが、途中厚見郡藪川で洪水にあい死亡。家来の又五郎、忠右衛門、彦太郎、親兵衛らが、遺品を持ち帰り、中洞に墓をたてた。これが今の中洞上ノ街道古屋敷というところにある石の塔と五輪の塔で、墓は桔梗塚と呼ばれ現在も残っている写真。光秀の家紋は桔梗である。光秀生存を暗示するもの比叡山のある寺に不思議な石灯籠がある。その灯籠には次のような字が刻まれている。「慶長二十年奉寄進願主光秀二月十七日」。まり慶長20年2月17日に光秀が寄進したというのだ。この光秀とは何者だろう。江戸時代に明智光秀が生きていたのだろうか。大阪岸和田にある本徳寺という寺には光秀の位牌が残っている。その光秀の位牌の裏にもまた謎めいた文字がある。「当寺開基慶長四巳亥」とあり、慶長4年に寺の寄進者になっているというのだ。慶長年間に光秀が生きていたことになる。この位牌には他にも文字が書かれているのだが、上から漆が塗られ消されている。何が書いてあったのだろう。何とか解読してみたいものだ。また、この本徳寺には唯一の光秀の肖像画が残っている。この肖像画にもやはり光秀が生き延びたのではないかと思わせる一文がある。それは「放下般舟三昧去」の部分で、まり、仏門に入り去っていったということである。光秀はこの寺に来て、仏門に入り、その後寺を出たのだろうか。どこへ行ったのだろうか。本徳寺は光秀の子が住職だったことがあることでも知られている。光秀が生き延びた可能性を窺わせるものを紹介したが、生き延びたのであればその後の光秀はどうなったのであろうか。肖像画に書かれているように、仏門に入ったのであろうか。最初の推理通り、本能寺の変の黒幕が家康であるなら、どこかに接点が出て来ないとおかしい。天海僧正さて、家康の相談役的な存在に南光坊天海という人物がいる写真東毛歴史資料館。「黒衣の宰相」と呼ばれた人物である。名前の通り仏教僧だが、関ヶ原の合戦の頃、突如歴史上に登場する。それ以前、どこで何をしていた人物なのかは不明。一応、1536年に生まれ1643年に病没ということはわかっているが出生は不明。一応、1536年に生まれ享年108歳と伝えられているが120歳という説もあり推定の域を出ない。「私は一度死でいる」という風説も聞くが、この天海こそ光秀ではないかと疑いたい人物なのだ。明智旧稿実録では光秀は1528年生まれとされているが、これも確かな数字といえるかは微妙なところのようだ。この定説でも10歳の差もないので、確定的なことが言えない両者の年齢では誤差のうちと言えるのではないだろうか。両大師伝記では、天海は足利義澄11代将軍の子とされている。武田信玄の生まれ変わりという説もある。天海はかて信玄の保護のもと論席を開いている。おそらくこれは天海の家康への献策、具申が信玄の政策と似ているところからのものではないかと思う。天海は、関ヶ原の合戦の頃に突然家康の側に仕えるようになり相当の信頼を得ているが、これは高僧だからということなのだろうか。同様に家康周辺には何人かの僧がいたが、この中でも最も信頼されているようだ。しかも僧であるにもかかわらず、戦術に優れ、合戦の際には作戦会議で意見を言ったりしている。当時、僧と言えども戦さの知識はあったものだが、それにしても他の歴戦の武将を差し置いて相当な戦さ上手の僧というのも不思議な気がする。天海の姿は関ヶ原合戦図屏風で見ることが出来る。この中では最後方の家康の近くで鎧をけている。「南光坊」と書かれているので間違いない。僧でありながら鎧をけているのだ。何とこの鎧、大阪城に現存している。大小の立派な角があるところなど、敵から身を守るための鎧というよりは、身分の高さや威厳を表わしているように思えるがどうだろうか。関ヶ原後も天海は家康の最重要側近として重用され、秀忠、家光にも仕えている。天海が家康に仕えただけでは光秀との接点は何もないが、実は意外なところから光秀との接点が出てくる。春日局3代将軍家光の育ての親は春日局であるが、通常春日局には誰でも会えるわけではない。後の将軍になる人の親の立場なわけだから当然だろう。だが、天海だけは例外である。それどころか、春日局の方がへりくだった態度をとっているように思えるふしがある。初めて春日局と天海が会う場面で、春日局は平伏し「お久しゅうございます」と言ったというウワサがあるが、とすると初対面ではなかったことになる。春日局と天海はどういう関係だったのであろうか。春日局は土岐氏に仕えた斉藤利三の娘である。まり謀反人光秀一族の側の人間なのである。謀反人に近い人物が次期将軍を育てる。それも家光の母は信長側の血筋のお江の方である。お江の方にとっては、時と場所を変えて敵に出会ったようなものかもしれない。とても我が子を託す気になどなれなかったであろうと私は想像するが。この不思議に輪をかけるような話しがある。が、これは後にあらためて述べる。土岐氏出身の春日局と光秀。もし光秀が生きていたら、当然光秀の方が格上である。天海が光秀であれば平伏するのは当然のこと。秩父神社日光東照宮の雛形として家康が造営を命じた秩父神社という神社がある。この神社の拝殿と本殿の幣殿東側面には竹笹を持僧侶らしき人物の彫刻がある写真。飛騨の工人左甚五郎作と言われるもので、日光東照宮の「眠猫」等も彼の作品と言われている。が、この人物も架空の人物という説が強い。妙見信仰関連の彫刻の中の一の彫刻にすぎないのだが、よく見ると桔梗紋をけている写真では小さすぎて見えないが実際に見るとハッキリわかる。明智の桔梗である。秩父神社ではこの彫刻以外には徳川の葵紋があるが、この人物だけ桔梗なのである。桔梗の僧侶。秩父神社の造営時には天海の弟子が派遣されていることからも、「桔梗」から光秀を、「僧侶」から天海を連想させる。また秩父神社の南に慈眼寺、その近くに明智寺もあるが2代将軍秀忠、3代将軍家光の名付け親は天海だが、日光東照宮にはこの時の文があり、斜めに折り畳むようになっているのだが、何と、折り畳むとそれぞれの一字が現れ「光秀」となるのだ。考えすぎかもしれないが、4代将軍家綱、5代将軍綱吉に共通される「綱」も、明智光秀の父「光綱」の名から意図的に抜き出したという説もある。東照宮風水学的に言って、江戸はかなり良い条件を備えた場所と言われるが、唯一のウィークポイントが北の方角なのだそうだ。ここに徳川を守るものを置けば完璧となる筆者、風水の知識ゼロのため人に聞いたものそのまま。こう進言したのも天海である。家康が死に、江戸の北にあたる日光に東照宮を建てる際に指揮したのも天海だ。この東照宮にもまた多くの謎がある。日光東照宮は日光山輪王寺に隣接していて、家康の遺言を受けた天海らが中心となって、久能山静岡県に埋葬されていた家康の遺骸を改葬して祀った絢爛で豪壮な霊廟である。元和3年1617年に原型が出来上がり、家康21回忌法要を機会に大改修がなされ、寛永13年3月に完成した。天海は遺言に従い、山王一実神道に則って「東照大権現」という神号を朝廷から貰い受けて日光山に家康を祀るとともに、代の将軍は「日光参詣」を行うことによって、徐に神格化していったのだった。日光東照宮は江戸幕府最後の砦を目指して造営されたものであるとも言われ、天然要害の日光連山の地にもかかわらず構造物に石材を多用している他、装飾品には銅など、鋳造しやすい金属をふだに使用し、弾丸に転化できるようにしているという。さて、東照宮は東照大権現こと家康を祀ってあり、当然ながら徳川家の葵の御紋がたくさ見られる。しかし、陽明門を守る木像の武士の紋はなぜか桔梗である左写真足の部分。光秀の桔梗である。さらに、陽明門の前に立鐘楼のひさしの裏には隠れるようにおびただしい数の桔梗紋がある右上写真。実際に見ると不気味なほどである。表向きには徳川だが、密かに桔梗紋が沢山入り込でいるのだ。これは何を意味しているのだろうか。東照宮というと日光が有名だが、他にもある。群馬県の世良田にも東照宮がある。世良田というと、徳川という名の発祥の地とも言える場所であるが、この世良田東照宮もやはり天海が作っている。もともと長楽寺の一部だった場所で、天海も住職をしていたことがある。近年、徳川埋蔵金伝説で有名になっているようだ。徳川家光春日局の項で少し触れたが、なぜ織田家の血が流れるお江の子家光を光秀側の人間である春日局が育てるのであろうか。乳母は公募で、春日局の夫である稲葉正成が関ヶ原の合戦で小早川秀秋に仕え、家康勝利に大きく貢献した功績を認められてのものと説明されているようだが、それにしても天下を治める将軍を育てるという重職にいたばかりか、この後春日局として絶大な力を持ことになるのである。大奥を謀反人に近しい人物に仕切られていて良いのだろうか。織田家の敵にあたる人物をこれほどまでに重用したことだけでも家康が信長と親しい関係ではなかったことがうかがえるのである。さて、三代将軍家光にも謎がある。東照大権現大猷院慈眼大師板絵右写真という絵は家康、家光、天海という変わった3ショットが描かれている。家康、秀忠、家光というならわかる。2代将軍がいない変わりになぜ天海なのだろうか。2人の偉大な将軍とともに描かれているというだけで不思議だ。家光の「家」は言うまでもなく家康の「家」だ。では「光」はどこから来ているのだろうか。まさか光秀の「光」ではないだろう。万が一にも光秀の「光」であるとしたらそう考えたくなる物証がある。それは松のさかへ東照宮様御文である。家光の親が秀忠、御腹が「春日局」になっているのだ。家光がお江ではなく、春日局お福の子ではないかという説は根強く存在する。そればかりか、家光は秀忠の子ではなく、家康とお福の子であるという説まであるのだ。日光山輪王寺奥院にある家光の墓所には家光が使用していたお守りが現存している右写真。そこには「二世ごげ二世しょうぐ」と書かれている。家光は家康の二世だというのだろうか。また「東照大権現将軍心も体も一ツ也」「いきるもしぬるもなに事も大ごげさま次第」ともある。いずれにせよ、家光が春日局の子であれば、春日局天海コンビの影が家光に強くきまとっているのも不思議ではない。秀忠お江夫婦が次男忠長をかわいがり、家光ではなく忠長を将軍にしたがったのはなぜだろうか。後に忠長は家光に命まで奪われている。少なくとも、陽

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