请喜欢历史并且有耐心的人看吧。其他人可以轻轻飘过了。明智光秀は戦国の世を生き抜き天下の行方を見守ったこれは私streが史実、異説、風説、伝説等を集め、整理し、推理を加えて考察した歴史遊びです。錯覚したり鵜呑みにして勘違いを引き起こしても何の保証もありませのでそれぞれの解釈、遊び心次第でお楽しみ下さい。楽しくなくても、これまた何の保証もありませ。前書き過去という永遠の闇に消えてしまった事実がある。この永遠の闇にライト当て、わずかに見えたものを組み合わせ判断したものが歴史である。闇すべてを照らすことは出来ない。過去に行けばいくほど深い闇に閉ざされている。組み合わせ方は他にないだろうか他の判断はないだろうかライトに照らし出されたものを見てみよう。意外な歴史が浮かび上がるかもしれない。その判断は個にお任せしたい。本能寺の変天正10年6月2日払暁、破竹の勢いで天下を握りある織田信長が部下である明智光秀の謀反により京都本能寺に倒れる。羽柴秀吉ら信長の部下たちは各地に散り、信長自身もわずかの手勢しか連れておらず、光秀は信長打倒の絶好の機会を生かしたのである。だがこの後、毛利に苦戦中だった秀吉がアッという間に和睦をまとめ、京都に戻り、明智勢と合戦、光秀はわずか10日余りで討たれてしまう。最期は農民に竹槍でかれるという悲惨なものだった。光秀を討った秀吉がやがて天下を取る。本当に光秀が犯人か言うまでもなく、本能寺において主君を討ったのは明智光秀である。ほとど常識である。しかし、本当にそうだろうか。いくか疑問点を挙げておく。事件は6月1日夜明け前に起こっている。時刻は午前4時頃で、出火炎上したのは午前7時から7時半と推定される。ところが光秀が上洛したのは午前9時頃という説がある。まり、事件当時光秀は現場に到着していなかったというのである。ならば光秀はどこにいたのだろう。これに関しては残念ながら正確な史料は残っていないのでわからない。事件の3日前の5月28日この年の五月は29日までに愛宕山に登っていることは確かである。一般には翌日に下山したように思われているが、権中納言山科言経の日記言経卿記によるとこの日はどしゃ降りで下山は不可能であったという。従って、下山は6月1日になってからということになり、この後、丹波の亀山城に戻り、1万3千の兵を率い、2日早くに京に入るのは不可能だと思われる。これにいては真相はよくわからない。が、本能寺の変にいてナゾが多いということは言えるだろう。明智光秀の動機明智光秀は、織田家に中途採用された人物であるが、頭がよく、インテリで、同じく中途採用の秀吉と出世街道を爆進中であった。主君信長を討った本能寺の変は光秀の個人的な恨みによるものであるとよく聞くが、果たしてそうなのであろうか。古来から信長襲撃の引き金として語られる話しは一しかなく、それは家康の接待役を務めていたが、信長が満座の中で光秀に屈辱を与えたために面目を失ったというもの。これは江戸時代の入ってから成立した川角かわすみの太閤記にのみあるという。もちろ川角太閤記は史料価値のあるものだが、これだけでは説得力に欠けるだろう。戦国時代に関する情報を得る際、そのほとどは江戸時代以降に書かれたものであり、比較的近い時代に書かれたものもあれば、それらを基に書かれた二次的な史料、単なる小説もある。全部を鵜呑みにすると混乱を招くだけで、原典の分析を伴った研究が必要である。しかし実際は様な史料が混ぜこぜになって使用されている場合が多く、そのため多くの説が乱立することになる。このページのものもその一かもしれないが生母を見殺しにされた恨みが直接の原因であるとも言われている。だが、信心深く、慎重で頭の良いな光秀が一時の激情に任せ、安直な行動に出るだろうか。用意周到な光秀が、多少の計算違いがあったにせよ、その後アッという間に討たれてしまうようなことをするとは私は考えにくい。だが事実、光秀は行動を起こした。実は明智光秀という人物が歴史上に登場するのは40歳を過ぎてからである。それ以前、どこで何をしていたのかは全く不明なのだ。土岐氏の流れの出身で、40歳を過ぎてから朝倉家や将軍足利義昭に仕えた後、信長の部下になっている。信長に仕える以前でわかっているのはこれくらいなのだ。従って、年齢もハッキリした数字ではない。背後関係頭が良く、計算高い光秀が一人無謀な策に出たのかいやそうは思えない。光秀の背後から糸をひく人物がいたのではないだろうか単独行動ではなく、光秀を納得させ行動させた人物がいたとは考えられないだろうか。もし、光秀の単独行動であるならば、もっと事件前に色な調整をしたはずである。各地に信長に敵意を持勢力も多かったし、朝廷や公家とも通じるはず。細川親子や他の信長の家臣たちに対する働きかけも十二分にあったはずだ。信長にバレることを恐れたのかだろうか。本能寺襲撃の最終決定は直前のことであったようだ。しかしこれは光秀の優柔不断さを物語っているのではない。慎重さを表わしている。当時、戦さの直前に歌会を開く風習があったのだが、光秀も愛宕山で歌会を開き、次のような歌を詠でいる。「時は今あめが下しる五月哉」「時」は「土岐」、「あめ雨が下しる」は「天下」を表わし、土岐氏が天下をとることを暗示しているのだ。光秀の心はこの時に決まっていたと思われる。既に何者かとの打ち合わせは完了していたのではないだろうか。事件の背後関係を考える場合、事件によって最も良い思いをした者があやしいと考える。本能寺の変で最も良い思いをしたのは羽柴秀吉まっ先にピンと来るのは羽柴秀吉だろう。秀吉と光秀とは出世争いのライバル関係にあった。事件当時、秀吉は中国攻めで毛利と戦い苦戦中。なとか備中高松城を落としものの、信長に援軍を要請し、毛利本隊との決戦を間近に控えていた。要請を受けた信長は光秀とともに秀吉の援軍にむかう途中だったのだ。このような状況下、本能寺の変を知り、決戦間近で意気の上がる目前の敵毛利と和睦し、新幹線もクルマもない時代に中国大返し、実質5日間で京都に戻り、疲れをとる間もなく戦上手の光秀と決戦、これに勝利する。あまりにも出来すぎた話しではないだろうか移動距離は1日約40キロの計算になる。フルマラソンを5日連続で走った直後に生死をかけた決戦に挑むわけだ。現実的な話しとは思えない。もし、光秀と秀吉が通じていて、信長襲撃を最初から知っていたとしたら秀吉も信長を恐れていた。恐怖の大魔王と呼ばれた信長が死ねば天下は秀吉に転がって来るかもしれない。事実、この後、秀吉は天下人となった。光秀と共謀したのは秀吉だろうかだが共謀相手の光秀と直後に戦いになっているのはどうしたわけか。信長襲撃は打ち合わせ通りだったが、秀吉は光秀を裏切り、最初から信長の次は光秀を討ち滅ぼすもりだったのか。秀吉の方が一枚上手だったのかもしれない。だが、それにしても毛利と決戦間近であったことも事実で、もし毛利との和睦に失敗していれば、光秀が天下人である。秀吉説はどうも辻褄が合わない。天皇家昔から天皇家はその権力が危うくなると、陰謀を企てている。古くは長屋王の事件があり、源頼朝に対し義経を操ったり、足利尊氏に対し新田義貞を操ったりしている。江戸時代幕末にも似たようなことがあった。天皇家の陰謀の場合は、それが陰謀とならずに認められてしまうところが怖い。光秀は天皇家の陰謀にはめられ、見捨てられたという線も考えられる。皇太子の誠仁親王はなぜか変後に自害している。光秀と結託していたのだろうか。信長はすでに足利将軍家を排除しているし、自らが天皇、またはそれに変わる絶対的権力者になろうと考えていたかもしれない。織田家は源氏の流れではないために将軍にはなれなかったという考えもあるが、秀吉は貴族でないのに関白になっている。家康も源氏ではないのに源氏の子孫になってしまった。信長が将軍になる以上のことを考えていたとしても全く不思議ではないだろう。当時、天皇や公家が信長に対し緊迫感を持っていたことは事実であろう。かたや光秀は天皇を敬う気持ちがあったのではないか。だが私は乱世に生きる武将である光秀は現実的な損得の計算もしたのではないかと考える。自分が捨て石になり天皇を守ることに意義を感じただろうか天皇黒幕説はなかなか魅力的に感じるが、ここでは結論を出さないでおく。皆さのご意見もお聞かせ願いたい。その他の容疑者細川親子がアヤシイという話しも聞く。幽斉と忠興である。確かに細川氏はたいした功績もあげていないのに後年、大大名になっている。また疑うなら濃姫も疑える。信長と濃姫は政略結婚にすぎない。濃姫は死後、なぜかどの寺院からも埋葬を拒否されている。これはどうしたことだろう。徳川家康さて、もう一人アヤシイ人物がいる。徳川家康である。実は私が黒幕とにらでいるのはズバリ、家康だ。他の容疑者も一人ず吟味するのが筋だが、長くなりそうなのと本題に一直線に進みたいのとでここでは触れないこととする。興味のある方をそれぞれチェックして見てほしい。家康は長男を信長に殺されたようなものであり、恨みはあるし、強大な信長との同盟関係は名ばかり、実際はまったく逆らえず、半家臣状態である。まり動機はあるということだ。合戦の時の陣や岐阜城、安土城で家康と光秀が密会する機会はいくらでもあっただろう。本能寺で信長が討たれた時、わずかな手勢の家康は堺見物中だった。事件を知った一行は光秀に襲われるからと、街道ではなく伊賀の山中を抜け、伊賀忍者の助けをかりて領地に帰っている。これはヤラセではないだろうか根拠は次の項で述べる。家康が絡でいないように見せるために少ない手勢で堺見物をしたが、全て計算されたものではないだろうか家康にとって唯一計算外だったのが、秀吉の「中国大返し」だったのではと考えてみる。土岐氏光秀の出自は土岐氏一族である。土岐氏といえば源氏の流れを持名門。戦国期には岐阜稲葉山城をおさめていた。だが下剋上の世、土岐氏は斎藤道三にその座を奪われてしまう。信長の正室の濃姫はマムシの道三の娘。まり光秀の宿敵と信長は親戚関係なのである。光秀の一族はもともとは伊賀の出身である。ここに矛盾がある。光秀の手を逃れるために、家康は光秀ゆかり地である伊賀を通り、攻められるどころか守られて帰ったというのだ。家康と光秀が裏で通じていたことはここに見い出せるのではないだろうか。土岐氏は斎藤道三に城を奪われた後、武田氏や松永氏を頼っていたが、江戸時代に入ると所領を安堵されている。謀反人光秀の出であり、家康と同盟関係の信長の敵にあたる土岐氏であるのにもかかわらず。江戸幕府は何を考えているのだろう。同時に江戸時代には土岐氏や光秀の祭り名前を忘れてしまった。どなたかご存知の方、教えてを許してもいる。信長殺しの光秀は謀反人として後世に残るはずが、江戸幕府では容認していたようにさえ見える。光秀にいて悪く書かれた文書のいくかが幕府によって消されたという話しもあるそうだ未確認だが。天下を取った徳川家と光秀の間には何やらアヤシイ雰囲気があるのは確かである。死だ光秀は影武者か本能寺の変後、うまく逃れたのは家康だけではない。光秀もまたうまくその姿をくらましたとい